ROCK 「庄田ひろし」のブログです


by sp3006
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私のキャビン カシータ

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私のキャビン カシータです。私のキャビンです。購入したのは1994年です。正直、395万円という価格は異常でしたが20年間の利用を念に購入いたしました。キャビンの名前は「カシータ」です。現在は内部を改修中。
これで猟に行くぞ“”
by sp3006 | 2005-11-15 10:26

これは今回 入院中、私が読んだ古事記・序文だけに記載されている原文を訳したものです。日本人にとっての「古事記」とは 古事記を知らない人のために少しレクチャ~する。
現存する日本最古の歴史書「古事記」は和銅5年<712>に成立した。それは天武天皇の発案により元明天皇の代に至って太安万侶(おおのやすまろ)が完成させたといわれている。

この実話である序文には「天武天皇」の次のような意味のことが語られる。「私が聞くところによると、伝えられてきた定記と本辞(天皇の系藷綴った書)とは既に真実とは違い偽りを多く加えている。今、その偽りを改めなければ、本旨は滅びてしまう。こうした歴史は国家のあり方天皇政治の基盤となるものだから、偽りを探し削り、真実を定め後世に伝いえようと思う。「天武天皇の言葉原文」 その命を受け、記憶力に優れた役人の「稗田阿礼」(ひえだのれい)が誦み習ったものを「大安万侶」が正書化したものだという。

そこで私は「天武天皇」を習い嘘・偽り・他人の指示は一切影響されることなく古事記を「ブログ日記風」に「私の古事記」として書き残したいと考えてみました。ブログというのは私、個人の歴史&近状、時事などの日記として解釈いただきたい。

そんなことで今回は「入院生活を快適に」と頭の体操を行うべく私の院内の近状を「おもしろ、おかしく」書いてみまた。また殆ど横道にそれ意味不明の文言などがあったら人間性を疑わずに「病」の影響だとご理解していただきたい。
by SP3006 | 2005-11-10 13:37
北の生活文庫 開拓の暮らし(私が読んだ真実の本)

開拓使や道庁が進めようとした開拓政策においても殖産興業に利用できる面と開拓の大きな支障となる面があって、保護と撲滅が極端な形で表れている。

 オオカミとクマ
 野生動物で撲滅の対象となったのはクマとオオカミであり、開墾地を中心とした人間の居住地域から駆除しようとしたのがシカである。 肉食動物であるクマやオオカミは、開拓期の生活において極めて恐ろしい存在であった。それは移住者などがクマに襲われるという事件が誇張されて伝わったという面が強く、オオカミの場合は実際には人間を襲った例ははとんどなく、「狼も沢山いたが人を害せず、畑をも害しなんだ。しかし馬をねらうの
で、牧畜には敵獣であった」 (『さっぽろの昔話』中山久蔵談) と、家畜被害が大きな問題であった。

 開拓使が奨励した畑作牧畜を主体とした農業において、馬、牛、羊、豚などの家畜は、移住者たちの将来の夢を託すものであり、また財産でもあった。が同時にクマ、オオカミなどの野生動物にとっては、最も狙いやすい獲物でもあった。特にオオカミは牧柵内で詞育している牛や馬を襲うことが多く、この点でいえば北海道開拓を妨げる代表的な有害動物と考えられたのである。

 クマは実際に移住者が被害に遭う事件も多く、最も恐れられた動物である。本質的な見方をすれば、クマの生息領域に人間が入り込み、伐木、開墾を進めて自然のバランスを壊した結果の被害である。 

クマの被害は極めて悲惨な状態を示すため、野生あるいは自然の底知れぬ恐ろしさを感じさせ、話が大きく誇張されて伝えられるとともに、このような危険な動物を撲滅することが開拓を進展させる前提の条件と考えられるようになったのである。

札幌の丘珠でクマが農家を襲い                                                
例えば明治十一年(一八七八)十二月に札幌の丘珠でクマが農家を襲い、家族が死傷するという事件が起こって大きな話題となった。それは明治十一年のことで、円山の火薬庫の脇から暴れ出たので、札幌市中はもちろん近村でも非常に騒ぎまして、夜中他出致す者はないくらいでした。この熊は札幌二ノ村等を暴れまわり、札幌村において夫婦に子供一人の農家に飛びこみまして、その亭主と子供を食い殺し、女房は大傷を受けてようやく逃げ出し(略)、二日間ほど追い廻わした上、ついに丘珠村の奥において森長保のため打留められたので、これを札幌へ担い来て警察の前へ、前申した人間を食殺した次第をしたためサラシ物にした。何のためか判りませんが、定めて後、来人間を食殺した熊はかような目にあうという熊共への教訓のためでしだろう。 

しかし、その時分は一匹も出て来て、見た熊もないようですから随分お笑草です。そのサラシ物がすんだあと、この熊を解剖したところが、食殺された両人の骨はまだその腹の中に残っていたのみならず、子供のかぶっていた頭布まであったので、これを博物舘へ出した。このころまで骨と頭布はアルコールづけになって熊の腹の下に置いてあった。あまり残こくで見る者の心持を悪くするので、この頃は箱の中に入れて、やはり熊の腹の下に置いてあります。

                                    (『同前』深谷鉄三郎談)

見せしめのためにさらし物とする

 クマの罪状を書き並べ、見せしめのためにさらし物とするのは、近世からの罪人に対する刑罰をまねたものであり、人を殺し住民を恐怖に陥れた仕返しであろうが、クマが反省するわけもなく、その後クマおよび胃の中から出てきた遺骨や遺品を博物館に陳列したことから見ても、一方的にクマの凶暴性や残忍性を強調することで、開拓に従事する移住民の注意を促し撲滅を進めるための宣伝にしたとも受け取れるのである。
 このようにクマやオオカミの被害が開拓を阻害する原因の一つと考えた開拓使は、明治十年に次のような布達を出している。
by SP3006 | 2005-11-09 15:57
この文章は理解力と知識の無い人は読まないで下さい。なぜか?文章が、あまりのも正論に近く現在、北海道が進めている政策「エゾジカの保護管理計画」不備で不愉快になるからです。

現在の狩猟(有害鳥獣駆除等は“)は130年前の政策「北海道開発」の歴史とその背景が大いに関わっていることを簡素に説明してみます。

評価を得るエドウィン ダン

 北海道開発のための外貨獲得と諸外国から評価を得るといった政策の中でこの様な実態があったと言うことです。「肉利用促進事業」シカの毛皮・肉利用促進事業が背景にありました。また、開拓時代の初代長官である「北海道開拓使長官」・黒田清隆の部下の起案から明治政府が招き入れた「御雇い外人学者」と言われる外人の顧問であるケプロンや同じ肩書きを持つ達の影響が多大であったということです。

外国人顧問や宣教師は

当時の外国人顧問や宣教師は、開拓時代の北海道を開発するために政府から呼ばれた「欧米先進国の知識人」?と呼ばれていた人たちで、道内では有名なクラークも、その一人でした。 開拓使が置かれていた明治4年(1871)、ケプロンは農業顧問としてアメリカからやってきた。

その頃、札幌の人口は急激な増加を見せ始めており(明治2年は7人、同5年には916人)、加えて明治6年に外人願問の指導で「室蘭街道」現在の国道36号線が開通すると、アメリカの開拓時代と同様、本州から猟師を大量に送り込み全道が一気ににぎわった。開拓史の狙いは当時、国外で需要の大きかったエゾシカの皮と本州からの移住民を悩ませるヒグマの脅威でした。シカが集まる季節、日高や勇払湿原・室蘭方面への交通の便が容易になったことが、政策的に進められたエゾシカ猟隆盛の引き金となった。

北海道に当てはめようと提案した

 そんな状況に、警告を発したのがケプロンです。彼が来日した頃のアメリカでは野生バイソン・オオカミ・コヨーテまでを大量に殺戮し先住民の問題が全米的に論議を呼び、それを知っていたケプロンは「このままでは北海道も同じ様になり」政策にも飛び火すると懸念した。狩猟専従者と野生動物の保護問題を初めにきちんとしておかないと、北海道の開発にも支障をきたすことになるからだ。アメリカの先住民と同様、北海道にも先住民・アイヌが住んでおり、野生動物を重要な蛋白源にしていることだ。

さらに和人のハンターがいる。そういった人々の失業を救いかつ狩猟を一定期間制限して動物を絶滅から防ごうという政策をアメリカから学び、共通点の多い北海道に当てはめようと提案したのである。それを受けて開拓使は明治9年11月、手つかず だった、シカ猟を初めて規制する「北海道鹿規則」を全道に適用・施行した。

鑑札(許可)を受けた者のみ狩猟可能

内容は、妊娠や育児期には雌ジカを捕らず狩猟は許可制にすることが柱で、狩猟者は毎年600名。鑑札(許可)を受けた者のみ狩猟可能で、鑑札1枚につき2円50銭を納入する。猟期は11月から翌2月まででとした。毒矢は禁止しただしアイヌは免税、希望者には猟銃を貸与し、シカ皮を返させた。貸与した銃は、明治政府に反感をもつ恐れのある地域のアイヌには火縄銃を与え良質の毛皮や交易用の熊の胃を捕り開拓史に友好的なアイヌには村田銃やアメリカ製の連発銃ウインチェスター銃を貸与えたという。
by SP3006 | 2005-11-09 14:27
北海道の自然と暮らし開拓地の暮らし(私が読んだ真実の本)

 九月二十二日(榊諾}布達

 熊狼ハ人民耕作物及牛馬こ墳害ヲ為ス事少カラサルこ付、自今該獣ヲ獲ル者へ為手当一匹金二円ツ、支給候条、右ヲ獲ル者ハ邦両耳ヲ添其筋へ届出ヘシ。

 このクマおよびオオカミ捕獲奨励の布達は、明治十一年三月にはオオカミ一頭七円、クマ一頭五円と変更され強化されている。 このような考えは、当時開拓使に雇用されていた外国人教師も同様であったといえる。 例えば北海道牧畜農業の父と呼ばれるエドウイン・ダンは『日本における半世紀の回想』(高倉新一郎訳、昭和三十七年)の中で、有害動物としてのオオカミについて次のように記述している。

 その当時、冬の数カ月間、彼等は専ら非常に豊富にいた鹿を喰って活きていた。夏中の彼等の食物は主として馬肉だった。充分に成長した狼は七〇帽ンから八〇ポンドの重量があり、大きな頭と恐ろしい歯牙で武装された口とを持っている。一般には極めてやせていたが、節肉はすばらしくたくましかった。

毛の色は夏の間は灰色であるが、冬になると灰色がかった白色になり、毛は厚く且つ長くなる。(略)彼等が獲物を追うのは普通一匹か二匹でやるのであるが、しばしば四匹か五匹あるいはもっと多く(狼が一団となって通ったあとも雪の上にみることがある。その分布は島中に広く散ばっているのが普通で、一カ所に固まっているということは殆どなかった。われわれがたくさんの馬を一つの囲いの中に集めたということが、遠近さまざまの地方から狼を誘い寄せたに相違ない。

 牧畜の定着が結果的にオオカミを限られた地域に誘い寄せることになったという記述は極めて重要で、オオカミの早い時期での絶滅を暗示するものとなっているが、さらにダンは次のように続けている。狼を全部追跡して狩り尽くしてしてしまうことは望みがなかったので、東京と横浜へ手に入るだけのストリキニーネを全部送るように注文し、更に、これだけではわれわれの目的には不充分かもしれないことを恐れて、サンフランシスコにも追加注文をした。

この記述の中の「われわれの目的」というのは、オオカミを絶滅させることであり、ダンは「われわれは北海道中に生きているもののすべてを毒殺するにも充分なくらいの量を手に入れることに成功した」と誇らしげに記述している。今日の自然保護や野生動物保護の観点から見ればとんでもないことであり、これを正当化することはできないが、当時の状況にはこのような考えが生まれる背景があったのである。確かに、貧しい故郷での生活を棄て十分な準備もないまま新天地での生活を目指した移住者にとって、北海道の気候や自然は厳しいものであった。

入植後、開墾予定地のうっそうとした樹林や荒漠たる原野を見てがく然と立ちすくみ、寒さと生活物資の不足から多くの死者や病人を出す状態であれば、自分たちの生活や生命を脅かすものを取り除きたいと考えたのは必ずしも間違っているといえない。

 また、北海道開拓を進める側の開拓使や道庁にしても、国内の政治事情や財政などの諸問題を抱えながら短期間で開拓の成果を上げなければならない立場にあり、開拓の進展の妨げになるものは極力排除し、移住民の定着と生活の安定を急ぐ必要に迫られていたのである。

 開拓地では生きていくことが精いっぱいで、ほかのことを考える余裕もなかった。移住民の生活に合うように自然を変えようとしたのが北海道開拓であり、オオカミやクマなど開拓に有害な動物の撲滅が官民一体となって進められたのである。

北海道の自然と暮らし開拓地の暮らしから
by SP3006 | 2005-11-08 14:00
シカ肉製造所

規則が公布された年のシカ皮産出量は、およそ6万4000枚。前年より1万枚ほど減り、さらに翌年には約2万枚も減っていった。この結果を見た開拓使は「ならばもっとシカを捕っても」大丈夫だろう。皮だけでなく肉も利用したらどうかと考える。シカ肉の処理方法は、当時外人顧問から技術が伝えられていて缶詰にすることにした。製造場所は、美々川のほとりで現在の御前水付近「植苗美々地区」ここは冬にエゾシカが大量に移動してくる地域だった。こうして「美々川缶詰所」が誕生した。

減期中の12~2月だけシカ肉缶詰を作り

官営のこのシカ肉製造所は、シカ減期中の12~2月だけシカ肉缶詰を作り、それ以外は時期によってサケ・マスの缶詰を作っていた。製造方法は、シカの鮮肉を適当な大きさに切って塩を加える。缶を密閉し、2時間ほど煮てから小さな穴を開け水蒸気を抜き、再びこれを密閉して冷水につけるというもので、鹿缶詰の値段は一缶約12~9銭。この年は約7万6千缶を出荷した。
札幌農学校(現在の北大)寮宿舎の食事メニューに製造された缶詰は、シカ肉シチューや野菜の煮付けとして、札幌農学校(現在の北大)寮宿舎の食事メニューに加えられた。

学生から「シカ肉が多すぎる」と不満の声もあったというほど

それも学生から「シカ肉が多すぎる」と不満の声もあったというほど頻繁に出されていたらしい。外人教師の間では、シカ肉を洋酒で煮た 「シカ・デ・プロ」 という料理や「シカのロース」も食されていたという。

缶詰は札幌だけでなく函舘や東京にも出荷し、これにすっかりつかり気を良くした開拓使は、北海道の地場産業になると見込み、この年、やはりシカの多い道東の厚岸にも工場を開設。胆振の鵡川にはシカ肉のハム工場も造った。美々の工場では内蔵を使って防腐剤しょう石や火薬の原料となる人造硝石も作り始め、その前途は誰の目から見ても明るいものと思われた。

雨が凍ってしまい

例年、雪の少ない太平洋岸も深い雪に閉ぎされ明治12年の1月から2月にかけて、かつてない大雪が北海道を襲った。例年、雪の少ない太平洋岸も深い雪に閉ぎされ、エサを求めて移動してきたシカは、逆に大雪に閉じこめられてしまった。

さらに不幸なことに降った雨が凍ってしまい、雪の下に生えたササを掘ることもできず、大量のシカが餓死した。おまけに、打ち上げられた海草を食べようと山から浜辺へ降りてきたシカも、人間が一綱打尽に叩き殺した。この年のエゾジカの大量虐殺は千歳地区でも行なわれ千歳川上流の現在の「第一・第三ダム」谷底へ追い落とした記録が現在でも残っていているという。

死んだシカの数は数十万頭にのぼりこの年だけで、死んだシカの数は数十万頭にのぼり、千歳から室蘭にかけてのエゾシカは全滅したと言われるほどだった。原料を失った缶詰工場は大打撃を受け、当初は年間7万缶以上という生産量も、大雪の降った明治12年には2万1000缶にとどまった。組織としても石狩にあった缶詰工場と併合され、名前も 「石狩美々かん詰製造所」に変わった。実質的な創業はこの年で終わり、翌13年には休業、そして明治17年6月12日、正式に廃止となった。 こうして北海道の近代工業のさきがけとして期待されたシカ肉缶詰製造所は、わずか2年足らずであっけなく幕を下ろした。


時代に翻弄された鹿肉缶詰製造所
あっと言う間に現れ、消えてしまったシカ肉缶詰だが当時、この缶詰は市民の食生活に受け入れられていたのだろうか?もとはと言えば石狩にあった缶詰工場(サケ缶中心)で駆除したシカを缶詰にしてみたら「一部の関係者達だけに評判が良かった」ため美々に大きな工場を開設したわけだが、「評判」と言っても「政府の官僚や議員クラスや外人」のことであって、現金収入のほとんどない庶民が早々に買えるものではなかっただろう。

さらに、豚肉や牛肉・鶏肉などが一般的になったのは、もっと後の昭和30時代であり、開拓当時「シカ肉が一般の食」には入り込む余地はなかったとある。
by SP3006 | 2005-11-07 07:29

051108ロッキ

5ヶ月目のロッキです。私が入院中、妻が散歩をしていました。a0047723_11572228.jpg
by sp3006 | 2005-11-01 08:53